入試で何を『学ぶか』

 

  時代がめまぐるしく動いていくようなときには、持っていた知識はすぐにすたれて使えない物になっていきます。すぐに知識を更新して、新たなものを学び習得し自分のものとしていかなければ立ち行かなくなるのがこれからの時代です。そういった環境に対応していくためにも「学ぶ」という訓練が不可欠です。社会全体に「学ぶ」ことを重要視する土台があれば社会全体にダイナミズムをもたらし活性化にもつながります。
 小中学校での「学級崩壊」に代表される「学ぶことをやめてしまう」という事態は、その本人にとっていかに深刻な事態かということが分かると思います。

 われわれは、学習塾という教育機関にあるものとしてこういった状況に危機感を覚えずにはおれません。一方で、生徒たちには何とか本物の学力を身につけ、これからの時代を自分たちの夢の実現に向けて羽ばたいていって欲しいと願っています。同時に、生徒たちには将来、塾で勉強してよかった、あそこで身に付けたことが役に立って本当によかったと思ってもらえるような学力を身につけて欲しいと思っています。
 受験は競争である以上結果を求めるのはあたりまえです。ただ、入試ですべてが終わりになってしまうような学力は無意味かつもったいないことだと思います。

 TOEFLという英語の試験があります。最近では大学でも英語のクラス分けに使用されたり、進級の条件になっているところも多いようです。ちなみに、日本は世界でも最低レベルの得点だとよくマスコミで騒がれます。リスニングを苦手にする学生は多く、それが日本の「受験英語」のせいにもされたりします。しかし、意外と知られていないのが、日本人は「読解」分野にも弱いということです。OECD加盟国の高校生の学習到達度調査(PISA)の調査でも、日本の高校生は、数学・科学に比べ、読解力がやや劣るという結果が出ています。『毎日趣味として読書をしていない』割合が参加国のうち一番高いというのが影響していると思われます。

 つまり今や「本を読まなくなった」日本の学生は読解するという言語生活のうえで欠くことのできない最も重要な能力が衰えつつあるという状況なのです。そもそも日本語の論説文が読めない人が英語でかかれたことを読解するなど無理な話です。高校生になれば国語力以上の英語力はもはやつかなくなります。中学の時にはわりと「英語は得意だけど、国語は苦手」という生徒も多いですが、大学入試にそれはありえません。高校生では自分で参考書を読んで学習する時間が圧倒的に多くなりますから、日本語を読解することのできない生徒は不利を受けます。
 国語というのは中学生にとって英語を学ぶのと同じことです。分からない単語や、熟語表現があって、文法がある。違いは母国語だから勉強しなくてもわかるという思い込みがあるかどうかだけです。

時代が求めているもの
生徒たちにとって「学ぶ」いうことがこれまで以上に重要な激動の時代をむかえます。そこで少しでも有利に生きることの出来る「学ぶ」力を育むというのも、我々に課せられた、大げさに言えばそれこそ「使命」だと思っています。
では、これからの時代にあって学ぶというのはどういうことなのでしょう?

先にも述べたように、時代の変化のスピードが速くなると、知識や、ものの見方・考え方というソフトは次々更新して、新たなものを再インストールしていかなければ立ち行かなくなるのがこれからの時代です。小中学校での学びは基礎的・基本的なものばかりです。生徒たちの言う「習ってもしょうがない」ものは一つもありません。知識として大切なのは勿論ですが、新たなものを学ぶ上での土台、座標軸とでもなるべきものを初等・中等教育で学習するのです。そして同時に、学ぶ上での基本を身に付けるときでもあります。
「受験というのものは、重箱の隅をつつくような難問奇問で成り立っており、ここに熱意を注ぐのは貴重な青春時代を浪費するばかりでなく健全な精神の育成には有害である」と考えておられる方がいらっしゃるとしたら、それはすでに完全に時代遅れです。入試問題は時代の要請に実に敏感に反応します。
いわゆる高度情報化社会にあって、必要な知識や技術を速やかに習得するのが重要な能力になるというのは先ほども述べましたが、それだけでは不十分で、なおかつそこから「自ら発想し、他者にそれを表現する」人材が求められているということも知る必要があります。「情報を的確に処理し、判断し、表現する能力」つまり「考える力」、そして、いろいろなレベルでの「コミュニケーション能力」が求められているのです。

養哲塾が目指すもの
受験勉強はこうした能力を養う絶好の機会です。
養哲塾では、我々講師は、まず「あてる授業」というのを叩き込まれます。少人数制で授業を行うメリットを最大限にいかして、矢継ぎ早に生徒に質問をし、常に頭が「考える」という状態をつくります。さらに答えに対しても「なぜそう考えたのか」「どうしてそうなったのか」のみちすじの説明をもとめます。そのことが彼らに考える習慣を身に付けさせるのです。さらに、講師になりたての頃には「教えるな」という逆説的なことも教わります。ひとつには、「教えたことはできるはずだ」という教師がよく陥る思い込みを戒めたものなのですが、大切なのは、「教えるのではなく訓練させる」という指導方針です。教えるのではなくて、かれらの頭を動かすよう訓練するのだということを徹底します。
生徒にとっても「分かった」=「出来る」ということではないのです。教えられたことを自分で応用してみる。そこでやり方が分からなければ、質問する。再度チャレンジして考える。ひとつの知識なり方法なりを体得するということは、このような対話的、双方向的なコミュニケーションを行うということです。その過程を通じて生徒たちは「学び方」を学んでいくのです。我々が1クラス7名以内の少人数で授業を行うのは、思考力を育むための教師とのやり取り、すなわちコミュニケーションを重視し、授業中生徒にあてることで、考えること、頭を動かすことを生徒に要求し同時に生徒からも質問し、発言しやすい環境を作ることを目的としているからです。

ここで誤解しないでいただきたいのは、「教えるな」とは「知識を与えるな」、ということではありません。知識はどんどん与えます。それこそ覚えてもらうものに関しては徹底的に覚えてもらいます。計算の手順や文章題の読解パターン、英語の構文や例文の暗唱、漢字や文法の活用形、詩の技法などはとにかく知識として覚えてもらう。単に眺めて覚えるのではなく、「手で書く」「声を出して読む」など五感をフルに使って習得してもらいます。夏や冬の講習を経験された方にはよく分かっていただけると思いますが、それこそ「ちょっと詰め込みすぎなんじゃないか」ぐらいにハードな日々を経験することになります。しかしこのような負荷を要所要所で生徒にかけることは、かなりの教育効果をもたらします。集中的にメリハリをつけて訓練を行うことで、動きやすい頭をつくることが「思考力」を育むということを私達は常々痛感しています。

 この場で出た成果は、それが学校の定期試験の成果であれ、入試の成果であれ彼らにとって大きな自信となります。時たま遊びに来る卒業生たちの報告からも、このような「学び」がそれぞれの進路に進んだ彼らの大きな財産になっていることを確認できます。

中学生は、彼ら自身大きく成長する時期でもあるだけに様々な悩みやストレスを抱えるでしょう。そのため、こちらが望むような「学ぶ姿勢」、「勉強する意欲」が一朝一夕に身につくとは思っていません。しかし意欲に行動が伴えばどんな生徒でも成績は必ず伸びるのだということに、可能な限り早く気付いて欲しいと思っています。自分自身を理解し、目的を持って行動できるようになれば見違えるように変わるのです。
中学生の間には、実に様々なことがあります。しかし確固たる実力は入試制度などには左右されないものだという信念のもと、生徒達を指導していきたいと思っています。

 


酒井 嘉之