抽象と具体の間にいること

 


 国語の授業のときは「抽象」と「具体」について、何度も話すことになる。両者は同じことを異なるレベルで捉えている、と説明しながら、一方では抽象化するときに捨象される大事なものはないのかよ、と自問自答せざるを得なくなくなるときがある。
 ちょうど模擬試験の結果と自分自身との関係もこれに当てはまるといってよいのだろう。この結果は本当に実力を正確に反映できたものなのか、あの時は眠かった、この時は忙しかった、そういった条件を抜きにしても、正確な実力など測れるものではないという感想を、自分が中学生のときも少なからず抱いていたのだ。
 さらにクラス平均、学校平均といった形で平均化、抽象化が進めば、この抽象的な数字は、毎日この部屋のこの机に向かって勉強している具体的な存在である自分とどんな関わりがあるのだろう、と疑問に思い、無視を決め込むことに陥ってしまったものだ。
 正確な実力など自分自身ですら測れるものではないと気づくのはそれから何年も後のことだったけれど、このときに感じた、結果として出てきた数字に対する一種の恐怖感や、こんなものなのかという怒りに似た感覚は今も心に引っかかっている。
 ひとつには自分の未来が見えないことへの苛立ちと不安があったのだと思う。自分は結局どんなになるのか、はっきりしないまま、なおかつ何かを決めなければいけない、前に歩かなければいけないなんて、それは暗い森の中を地図もなしでお前は歩き回っていろと誰かに命令されるようなものだ。時間はどんどん過ぎていくが、まずは冷たい地べたにうずくまって途方にくれるよりほかないだろう…。

 結局僕が言いたいのは、抽象化された数字に対しても目をそらさずに、にもかかわらず、数字も含めた今のそれを大きく超えていくような自分の姿を想像していくのがいいと思う、というようなありふれたことに過ぎないのだ。しかし毎年受験に向かう生徒たちを見ていると、そういった「超えること」をまさに具体的に実現させて卒業していくという事実があって、それは今これから受験を控える君たちよりは知っていることなのだ。僕が言いたいのはこちらのほうだ。
 夏期講習の国語のテキストで「実存の目覚め」というテーマが取り上げられた文章があったけれど、それをこれから痛切に感じる時がきっとやってくるだろう。そんな中で実存に目覚めた顔、自分で時間を支えている顔はなぜか必ず美しくなっている。教室の卒業生の写真たちを見ればそれはわかるだろう?
 台風が過ぎてこれから気温が下がると突然金木犀の花が咲き始める。そして今年も秋が来たと感じるだろう。あの鮮烈な香りの中を通り抜ければ、桜の咲くころは、僕にとってはもうすぐだ。そのときにはきっと笑顔で会えるだろう。


海野 賢太